和尚さんから・・・

新年に思う

平成16年甲申(きのえさる)、国際暦2004年、仏紀2570年の新春を迎え、世界の平和と安寧を希い、あわせてみなさまのご健勝とご多幸を祈念申し上げます。

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□小倉画伯の「竹に虎図」、修復なる

 

  当寺院には小倉芳司筆「竹に虎図」(日本画・絹本着色)が所蔵されています。
 小倉芳司画伯といえば、両毛が生んだ現代日本を代表する日本画家のお一人ですが、この「竹に虎図」は画伯47才のとき、すなわち昭和32年に、ご親戚で寅年生まれの、故・春山寅吉さんの依頼により描かれ、寺に寄贈されたものです。当時、近郊にトラのいる動物園もなく、そこで画伯は上野動物園まで通いつめてスケッチを重ね、綿密な下絵構成のもとに、竹林を闊歩する勇壮なトラの絵を完成されたとうかがっています。
 じつは長く山のお堂のなかに、絵馬と一緒にかけてあったため、わずかながら傷みを生じていましたが、このほど、なんと阪神タイガースの快進撃のおかげで、修復がかないました。タイガースの優勝が間もなく決まるというころ、「そういえば、あのトラの絵はどうなったでしょう?」と、小倉画伯のご家族が思い出されたそうです。電話を受けて、早速に山のお堂から下ろしてご覧にいれたところ、傷んでいるのをみて、すぐに専門家の手に委ねて修復して下さったのです。なんと有難いことでしょうか。
 まさか阪神タイガースの快進撃のおかげで、当寺の宝物が修理されるとは思いもよりませんでした。世の中はまことに不思議なものです。あらためて仏教でいうところの「縁」というものを感じた次第です。
 動物を題材にした絵は、画伯の長い画歴のなかでもたいへんに珍しいそうです。ですから、そういう意味でも貴重な日本画であり、長林寺の宝です。今後は管理上のことも考えて、山のお堂から本堂に移して、大切に守って行きたいと思っております。
 日展会友の小倉画伯は、今年95才になられますが、なおもお元気に絵筆をとっておられるとのことです。画伯のますますのご健勝をお祈り申し上げます。
□「縁」について
 世の中というのは、かくのごとく不可思議なもので、単純な因果律だけでは説明しきれません。科学万能の時代というのは、どうも因果の必然法則だけでものごとを説明しようとする傾向がありますが、こうした不可思議な「縁」というものも、忘れてはならないでしょう。
 いまの「日本画」の場合でも、タイガースの優勝と長林寺のトラの絵は、ふつうの因果律というか、必然法則では簡単に結びつきません。野球に関心はあっても、私などはいわゆる「巨人・大鵬・卵焼き」のくちですから、正直にいうと、たとえタイガースがぶっちぎりの優勝を遂げても、さほど個人的には嬉しくもなく、よそ事のように思っていたのです。
 ところが、このタイガースをめぐる一つの因果律が、トラの絵という別の因果律と触れ合い、ぶつかり合って、今回の出来事が生まれました。この世界はまさに、縁リテ起コル「縁起」の世界であることを、目に見える形で見せてもらったように思います。
 何が原因になって、何が結果としてもたらされるかは、予測できる場合と予測できない場合があります。この世界は「因縁」によって成り立っていると仏教ではいいますが、この場合、因は直接的な原因で、縁は間接的な原因です。あるいは、因は原因で、縁は条件であるともいえます。この「縁」というものこそ、じっさいにはさまざまな現象を引き起こしているもので、科学的な必然法則を超えて、多様な、そして刻々と変化する現実世界を作り出しているものでしょう。
 南方熊楠(みなかた・くまぐす 1867〜1941)という有名な学者がいますが、かれは土宜法竜という密教の坊さんと面白い手紙のやりとりをしています。
 南方の考え方を簡単に説明しますと、たとえば科学者は「物」の世界に拘泥し、哲学者や心理学者は「心」の世界に拘泥するきらいがありますが、南方はこの両方を批判的に見ていました。とくに西洋的な思考に慣れ親しんでいた南方は、日本の宗教者が西洋の科学思想に対抗して、「心」にばかりこだわり、安易に神秘主義とか精神主義といったものに逃げ込むことを厳しく批判しています。仏教的な思想は神秘的だから価値があるなどというのは虚妄であり、そうではなくて仏教は世界を支配する因果律をとらえようとしたからこそ価値があるのだということを、土宜師への手紙で述べています。
 ここで仏教が世界を支配する因果律をとらえようとしたというのは、もちろん西洋的な科学の因果論との一致を指摘しているのではありません。むしろそれを超えて、世界をどこまでも「縁起」の世界とみる、そのような仏教の世界観をこそ大切にすべきだと、南方は主張しているのです。
 ある意味では、仏教の縁起もたしかに徹底した因果論ですが、しかしそれは、単純な必然論ではまったくありません。そもそも仏教では、すべてが必然の法則で成り立っているという必然論は否定しています。しかし、その一方で、すべてがデタラメだという偶然論も、またすべては神のご意志や命令で決められるといった神意論なども、仏教では否定しました。仏教でいう縁起とは、そうした単純な必然論や偶然論、また神意論といったものを超えて世界をとらえるという、ユニークな世界のとらえ方なのです。
 たとえば、植物のタネが発芽し、成長して、花を咲かせ、実を結ぶというのは、単純な因果論としてよく理解できますが、しかしタネが発芽し、成長していくには、実際にはさまざまな条件、つまり縁が必要です。光、水、温度、土、空気、栄養、時間、空間、愛情などなど、無数の縁がなければなりません。ですから、花が咲くということは、実に大変なことなのです。
 同様に、親があって子があるというのも、言葉としてはわかりやすい必然法則ですが、しかし、これにも多様な縁が必要とされます。親の数だけでも、十代さかのぼれば1,000人、二十代さかのぼれば200万人、二十五代前からの親を合算すれば、軽く億を超えてしまいます。私一人がここに存在するためには、まさに無数の人間の出会いが必要でした。飢餓や病気や戦争で、あるいは事故や災害で、もしもそのうちの一人でも欠けていたら、私という存在がここにないと思うと、まさにこの私は「縁起の存在」であると実感できます。
 ですから、目に見えるものでも、見えないものでも、私たちは縁というものを大切にしなければなりません。この世界のすべての存在が、さまざまな縁によって成立していることを自覚し、たとえ見えないからといって、誰かを、何かを、傷つけたり、壊したり、しないようにしたいものです。またすべてはつながっているのですから、自分に責任はない、ということもないのです。何に対してでも、つねに多少とも自分に責任はあるのだと考えて、行動しなければなりません。たとえ直接の因果関係などないように思えるときにも、実は私たちに原因があることだってあります。地球規模の環境問題というのがそれですし、遠い国で起こっている戦争や飢餓も、きっとそうなのです。


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